楊名時太極拳稽古要諦
稽古要諦は楊名時先生が稽古のたびに説いた要訣集です。
意識を丹田に置く事で、精神と重心は安定し、動きも軽快になる
太極拳は動きながら心の安静を求める。気を落ち着ける第一歩は呼吸から、下腹部を意識すると落ち着いた呼吸ができる。呼吸を落ち着ける事=気を落ち着けることである。
丹田は身体の重心位置でもある。丹田を意識する事は全身のバランスを意識する基本である。丹田が重力にしたがって落ちる方向が真下、重力と反対方向が真上である。この垂線を意識しよう。それは姿勢を判断する基準線である。
心静用意
雑多な思考を廃して、意識を集中させ、感覚を鋭敏にする
気を落ち着ける為には「思い」を払うこと。まず周りの音に耳を澄ませてみよう。小さな音まで丁寧に意識する事で、身体知覚を鋭敏にする準備が出来る。ゆっくりした動作を正しく動くためにはフィードバック(感覚による位置の確認)が不可欠。“心静”によって確認するための集中力を高める事が出来る。
動きを覚えたら、ストロークごとに動きの丁寧さを積み重ねよう。これが“用意”。意識的な丁寧さ、きめ細かさには“心静”で得た集中力がものをいう。それによって確認と修正する能力が向上する。
②沈肩垂肘
首から肩の力を抜き、腕の重さで肘を垂らす。
肩を持ち上げるのは後頭部から肩にかけての筋力(僧帽筋上部繊維)。これは頭部後方から肩先を引っ張るもの。つまり、肩が上がる=頭が肩を支えることである。ただでさえ重い頭(ボーリングのボールと同程度といわれる)がさらに重くなるわけだ。肩がゆるみ下がれば、頭は軽く、当然ながら腕や全身の動きも軽快になる。垂肘は上腕と体幹の連結を指す。肘が垂れていれば胴体の動きが腕に伝わりやすく、肘が垂れていなければ胴体との連結が薄くなると同時に肩が上がりやすくなる。肩が上がるのは上半身のムダな力の代表。肘が垂れれば肩は上がりにくくなると同時に勁道(気血や力の伝達経路)が正しくなる。
身正体鬆
姿勢は正しく、頭部、腹部、尾閭が一線であれば無駄な緊張はない。
“身正”は丹田=身体の重心、頭部の重心、骨盤の中心(尾閭)が垂直に揃うこと。その上で首が傾いていないこと。両肩、両肋間、両股関節、両ヒザが水平であること。つまり身体全体が傾かず歪まないことをいう。身体の中心軸が傾かず、左右の重要な部分が天秤のように平衡をとれていれば、ムダな釣り合いをとる必要はなく、最小限の力で姿勢を保つことができる。これが“体鬆”である。
③内外相合
精神活動と姿勢・動作は密接な関係にある。
散歩をしている時には両手両足を意識的に動かすことはないだろう。ところが太極拳では両手両足を意識的にコントロールしなければならない。内なる意識と、外形にあらわれる動き。“内外相合”の簡単な解釈は両者の統一である。自分が思っているように身体が動いていない。思ったように動いているつもりでも、他人からは破綻が見える。それらは内(意識)と外(外形、動作)が符合しない証である。
内外相合を得るコツは「客観性」である。自分の意識だけでなく他から見た自分の動きはどう見えるか。客観的な視線・意識で自分を観察してみよう。そのとき見方になるのは鏡などの道具はもとより、知覚、体性感覚とひとの意見である。
由鬆入柔
精神・肉体共に、意識的にゆるむことで、柔は実現する。
自分の姿勢の歪みには案外気づきにくいもの。それと同じように、心の緊張にも気付かないことが多い。それから解放されるには、刺激を得ないことと、積極的にゆるみを得ることである。
呼吸を整えることは第一の要件である。姿勢のチェックも重要。鏡で確かめたり、先生や仲間の意見も参考にしたい。関節の一つ一つを意識的に良く緩ませることも大切である。無自覚の緊張を解くのは、案外難しいものである。意識的に緩ませることはよく学習して身につけておきたい。
「鬆」は中身が空しいこと、「柔」は中身はあるが全体に柔らかいこと。心は「空」であり、身体には「気」と「動き」が充ちなおかつ柔らかいこと。心が「鬆」になることによって身体の「柔」がかなう。
④上下相随
腰が動きの中心となり、前進は上肢が、後退は下肢が先導する。
上下は“手と足”、“腕と脚(中国では臂(ヒジ)と脚)のこと、上司と下肢の連携をうまく機能させることである。ふつうに歩くときと違って、太極拳の動作速度では上下肢が自然に連携することはない。ゆえに意識的に連携をとる必要がある。
技の要点、
1. 手足の向かう方向が一致すること。
2. 動きだしの順番を間違えないこと。
3. 定式に至るのは同じであること。
≪前進・後退の基本≫
・前進は、視線が先導し、掌がヒザをリードする。
・後退は、ヒザのゆるみが全身をリードする。
弧形螺旋
すべてのパーツが螺旋で繋がり、動きは円を描く。
太極拳の動きは円運動の連なりで構成され、直線動作は少ない。また、太極拳は上下肢を伸ばすことはない。しかし、意識しないと伸びてしまうところがある。それは肘。過渡動作の虚側の腕、たとえばボール抱え動作に移る時の下側の腕や、雲手の下側の腕は無意識に伸ばしやすい筆頭である。また、初心者は攬雀尾の双推手、楼膝拗歩や左右穿梭の推手も伸ばしやすい。腕中心で動いている時や、身法が適切でないときに多く見られるので注意したい。身法が適切で弧形螺旋が適っていれば、内部深筋の活性強化、血流促進、呼吸力向上など、健康効果を増進できる。
⑤主宰於腰
すべての動きは腰が中心となる。
腰とはウエスト(腰間)のとこ。すべての動作で腰間の動きが適切であることが技の要点。腰は上肢と下肢の平衡をとる要であり、胴体のひねり運動は健康法の秘訣である。腰(腰間)が巧く機能せず胴体を平板に使うと、手足だけ動かすことになり、太極拳の健康法として美味しい部分を捨てているようなもの。楊名時師家の太極拳は腰のひねりが特徴。これこそ健康法の要であり、後世に伝えたい技である。
わが国では、“腰が動く=骨盤を動かす”と解釈しやすいが、これは間違い。
拗勢の動きは時に注意してウエストのひねりを練習したい。楼膝拗歩、白鶴亮翅、高探馬、左右穿梭等々。ウエストをひねっても膝が内に入らないように注意すること。ウエストのひねりより膝のコントロールの方が難しい。
中正円転
腕の上下は肩で、左右は腰で、胴体の回転は股関節で行い円の動きとなる。
中正とは、垂直になっている身体の中心線を中心に、胴体や四肢が天秤のように平衡を保っている事。その軸を中心とした円(回転)運動が“腰のひねり”である。中心線の周りにあるものが傾いたり偏ったりすれば円運動が歪になる。傾き、偏りを正すのが“中正円転”の第一歩。肩の高さ、重心の偏りなどをよくチェックしたい。左右穿梭や閃通臂など、肩の傾きに気づきにくい形は時に要注意。
⑥尾閭中正
骨盤の軸を垂直にして、脊椎の土台を安定させる。
尾閭中正は両股関節を水平にして骨盤の中心軸を立てること。骨盤が水平でなければ背骨は真っすぐ立たず、上体のバランスが悪くなる。太極拳の弓歩姿勢は後ろ側の股関節が上がりやすいので、初心者のうちからよくチェックしたい。特に単鞭は顕著に出やすいので要注意。
虚歩の姿勢では、後ろ側でのチェックで発見するか、ひとから指摘されないと気づかないことが多いのでよく注意したい。
源動腰脊
すべての動きの源は腰椎にあり、動きは横隔膜と丹田の間から湧き出る。
手足が勝手に動くことのないのが太極拳の基本で、ほんの小さな動きであっても腰が動いている。腕や肩、腿や足の筋肉は意識して動かしやすいので、それに頼ってしまう。太極拳では、腕の動きは肩が、肩は腰が動かしている事をよく自覚して動くように心がけよう。
腰脊とは“腰椎”のこと。腰椎上部は体幹旋転運動の中心であり、足を前に出す腸腰筋、腕を上げる広背筋、腕を下ろす前鋸筋の基部が集まる、文字どおり全身運動の中枢である。
⑦含胸抜背
胸はゆったりと構え、背中は伸びる。上半身が内から広がり萎むところなし。
“含胸”の“含”はもともと、“涵(ゴン)”の当て字であり、溢れかえる意味。胸を狭くしないことである。“抜背”の“抜”は“抜きんでる”意だが、ここでは背骨から肩甲骨が“離れ”広がること。両方合わせて“胸も背中も広がる”の意味。
胸を広げると言っても胸を張りすぎると背中が狭くなる。背中を広げようとすると、背中を丸め過ぎて胸が狭くなる。両方がちょうど良い広がり保つこと、それが“含胸抜背”である。
脊貫四梢
動きは腰から発し、関節を貫くように流れ、末梢に伝わる。
“脊”は脊椎の中心、胸椎の下端から腰椎上端にかけて。貫くのは動きや気の“流れ”。四肢を動かす筋は脊椎中心から四方に伸びる。だから脊椎中心は動きや力を生む出す要である。気血の流れも同様に身体の中心にある心臓・大動脈から四肢に向かって送り出される。力や動き、気血の流れは、文字どおり“脊”から“四肢”に向かって貫き流れる。“源動腰脊”と同じ意味である。
⑧虚領頂勁
頭はてっぺんから上に伸び、首・背中を引き上げる。
“虚領”は頭頂が軽いこと。軽いのはムダな力みから解放されているから。主になるムダな力みは、首が前に垂れるのを引っ張る力。姿勢を正して首が前に垂れないようにすれば、頂の力みがとれて頭頂が軽くなる。
“頂頸”は頸が上に登ること。頭を引っ張り上げるようなイメージがあれば、首が垂れてしまうことは避けられる。
太極拳は“力みを嫌い”“ゆるみを良し”とするため、ゆるみすぎて首が前に垂れる場合がある。姿勢維持のために“虚領頂頸”をよく意識しよう。
三尖六合
手先、足先、鼻先を目標に向け、四肢関節の配置と意識活動は調和する。
“三尖”は手・足・鼻の向きが揃うこと。まずは方向を揃えること。
腕の動きは意識しやすいが、つま先やヒザの方向は外れることがある。前ヒザやつま先の方向に注意したい。視線→手の動き→ヒザの動きが調和することは上下相随との共通項目。
“六合”は外三合と内三合の調和。意識と動作を調和させること。外三合は主要関節、手首と足首、肘とヒザ、肩と胯の位置的調和。内三合は“精(エッセンス)”“気(流れ)”“神(様子)”の調和である。
ひとつひとつの筋肉の働き(精)で関節動作の流れ(気)を作り、身体全体(神)に行き渡らせる。一般スポーツでは無意識動作が案外多いものだが、太極拳はより多くの部位を意識でコントロールするところに特徴がある。
⑨呼吸自然
動作を意識し、呼吸は自然に任せる。
良質な動きは呼吸と動作の調和がとれているもの。調和が乱れるのは両者が分離するから。動いている時に呼吸を意識し過ぎるのは調和を乱すもとである。太極拳の動きの目的は呼吸ではなく、呼吸は動きに加勢するもの。動きと呼吸の取り決めを作るのではなく、理に適った動きは自然で正しい呼吸に導く、そうしてできた自然な呼吸は、動作の円滑さを補助するだけでなく、健康面でも有益である。
速度均匀
速度は平均していてむらがないように。
速度を均等に…ではなく、ゆっくりと動く意識を均等に保つこと。意識が途切れないようにすること。ゆっくりと動く意識が抜けた瞬間、動きは日常速度に戻ってしまう。常にゆっくり丁寧に動く意識を保ち続けることがムラの無い動きの基本である。止まらないことも基本のひとつ。初心者は途中で止まってしまうこともあるが、できる範囲でゆっくり動く意識を持つことは重要だ。型を覚えるとともに、丁寧で綿密に動くこともよく学びたい。
⑩分清虚実
片足が実となり軸ができる。虚と実があり、真ん中で回転しない。
実は重く、虚は軽い。どちらの足にたくさん体重がかかっているか、太極拳は常にそれを意識して動く。初歩的には、歩くときは、実の足はしっかり踏み、虚の足は緩み浮かせること。慣れてきたら、より多く体重の載った足が実になって動くことを実感したい。両脚で立っている時に中心で回転するのは動きの効率が悪いだけでなく関節を痛める元である。
胯与膝平
左右の股関節、左右のヒザをそれぞれ水平に保つ。
ヒザの高さが左右で違えば、低い方の膝が無理をしている。股関節の高さが左右で違えば、低い方に背骨が傾いている。ゆっくり動くだけに、太極拳はバランスが重要。中腰の姿勢はさらに負荷が増える。中腰で傾いたままずっと同じ姿勢でいるのと同様な負荷を、特定の関節に与える可能性がある。姿勢が正しければ、負担が軽く、動きの無駄もなく、効率も高い。
⑪動中求静
変化が見えなければ、動は静と同じ。
動いていても静かである。その条件はできるかぎり少ない筋力で動くこと。力を尽くさない…といってもサボっているわけではない。静かであることはよく聞き取れること。それは、感覚を鋭敏に保つ、全身に気を配る、相手にもまわり全体にも気を配る条件である。
相手に自分の動きが見えなければ、自分の動きは悟られない。それは相手に神奇を感じさせる条件となる。だから、太極拳の動は静と同化をめざす。
眼随手転
視線が行く方向に定まり、全身の動作が連なる。
動こうと考えた時、最初に反応するのは視線である。だから眼の動きは次の動作の方向をあらわす。
列車の窓から見える景色は窓枠があるからスピード感と臨場感が倍加する。武術の構えが相手の方に手を出すのも同じ理由。あいだに、ものがあったほうが眼球の測距精度が向上するからである。手の動きと視線が連動するのはその理由による。
⑫剛柔相済
柔があるから剛が活き、剛があるから柔になる。
“済”はでこぼこや過不足を整えること。“筋肉がつる”のは剛のみの状態、“腰が抜ける”のは柔のみの状態。剛と柔どちらも単独ではまったく用をなさない。筋肉の剛と柔がほどよく合わさって変化するのがよい動きの条件である。筋力系のスポーツは“剛”がリードし“柔”は脇役。太極拳は“柔”がリードし“剛は”隠し味的な存在である。
手与肩平
動作の一部で手と肩の高さが一致する。
ヒトの腕は四つ足だった頃の前足。前足として上半身の体重を支えるためには、背骨(そのころは地面と水平だった)と直角であること。直立した今もその関係は有効で、前に向かって力を出す時は、手が肩の高さにあることが効率的な形態。この位置関係は力の運用に有利なだけでなく、血流やリンパ流が滞りにくいメリットもある。だから太極拳は多くの型で手を肩の高さに上げて動く。
「健康太極拳 標準教程 楊進・橋逸郎」より